逃げ水
脳みそが空っぽだと思った。
「水飲む?」
そう言って差し出されたペットボトルを受け取って、蓋が軽く開けられてることに気づいた。
その気遣いに苛々する。苛々すれば感謝の言葉も発したくなくなって、目も合わさずに受け取った。
受け取ったものの飲む気にもならず、膝の間に置いた。素肌に当たれば冷たい。服を着なければいけないのに体はだるく億劫だ。上半身を持ち上げているだけでも褒めてほしい。
下着とTシャツを身につけた男が、ペットボトルを眺めている私に体を寄せてくる。
ありがとうだの気持ちよかっただの言ってる気がする。気がするわけではなく実際に耳元で囁かれているわけだが、そのくらい遠くに聞こえる。
この人私のこと何も見えてないんだな〜と思った。
私は水よりも下着を探して渡して欲しかったし、そもそも身体を起こしたくもなかった。
ありがとうなどと感謝される覚えはなかったし、気持ちよかったなんてお前の感想正直どうでもよかった。
なんでみんなセックスしたがるのかわからない。セックスしたらセックスした男になってしまう。
さっきまであんなに楽しかったのに。
さっきまであんなにちゃんと会話していたのに。
もうお前はただの経験人数になってしまった。
名前のない男。何十分の一の男。
つまらない男。
後ろから抱きしめてくる腕をなるべくそっと解いた。手持ち無沙汰になった相手にペットボトルを無言で返す。
そのまま手探りで下着を取って、するすると身に纏った。
身支度を進めて最後にテーブルに取って置いたアクセサリーを身につける。鞄を手に取って「帰るね」って笑った。
「送らなくていいよ」と拒否したのに「送る」と言って聞かないからタクシーを拾ってもらった。
気持ちが悪い。ずっと気持ちが悪い。
タクシーに乗って初めて息がつけた。